全盛期の最強マイク・タイソンから引退後の現在まで追いかけろ!生涯戦績やファイトスタイルは?

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ボクシングファンでなくても、その名を知らない人はいないでしょう。

マイク・タイソン―。長いボクシング史上でも、彼ほどセンセーショナルで、記録にも記憶にも残るボクサーはいません。

晩年はトラブルも多くヒールの印象が強いですが、連勝街道を突っ走っている頃はまさにスーパースターでした。

日本ジム所属の世界王者が10人を超えるなどボクシング人気復活の今、あらためて偉大なファイターのボクサー人生を振り返ってみます。

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マイクタイソンの戦績は?最強クラスのボクサーの強さ

プロ通算成績は50勝(44KO)6敗2無効試合でした。戦績で全てを判断できる訳ではありませんが、“ザ・グレーテスト”と呼ばれたモハメド・アリは56勝(37KO)5敗。

そのアリに“キンシャサの奇跡”で敗れたジョージ・フォアマンは76勝(68KO)5敗。生涯無敗で映画「ロッキー」のモデルになったと言われるロッキー・マルシアノは49勝(43KO)。

タイソンのライバルだったイベンダー・ホリフィールドは43勝(28KO)10敗2分け。

歴代のヘビー級名王者と比べても全く遜色のない戦績、特にノックアウト勝ちの多さは特筆ものです。

一気に頂点へ

キャリアの前半は若さとパワーに任せてゴングと同時に突進するファイトスタイルで世界中のファンを熱狂させました。

プロデビュー以来19連続KO勝ち、うち12戦は1ラウンドで倒したものでした。27戦全勝(25KO)の戦績を引っ提げ、1986年11月に世界初挑戦。

カナダ人のWBC王者を何度もダウンさせて、わずか2ラウンドでノックアウトしました。この時、実に20歳5カ月。

史上最年少で世界ヘビー級王座に就き、若きスーパースターが誕生しました。その後すぐにWBA、IBF王座も獲得し、主要3団体統一世界ヘビー級王者として君臨しました。

しかし、巨額のファイトマネーを稼ぐ世間知らずな若者に、様々な思惑を持った人間が近付いてきます。その後、少しずつ人生の歯車が狂い出すのですが、それは後述しましょう。

タイソンのファイトスタイル

人気の理由はファイトスタイルにもありました。左ジャブを突きながらジワジワと前進し、強烈なフックで相手を吹っ飛ばす、典型的なファイタータイプ。

しかも従来のヘビー級ボクサーはパワーで押すタイプが多かったのですが、タイソンはパワーだけでなく、スピードも兼ね備えていました。

回転の速い連打で相手に反撃の隙を与えず一方的に倒す、特に相手の左脇腹に右ボディーフックをめり込ませてから、相手の顎を跳ね上げる右アッパーのコンビネーションは、目の肥えたファンをも戦慄させるに十分な、強烈な“必殺技”でした。

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荒々しいスタイルは身長180センチと、ヘビー級としては小柄だったことにも起因しています。

リーチを生かしたアウトボクシングをできるはずもなく、自分よりも背の高い大男に勝つには、瞬時に接近戦に持ち込む踏み込みの速さとパンチのスピードが必要だったのです。

当然ながら至近距離で打ち合うということは自ら打たれるリスクも伴うため、打たれ強さも重要になります。

タイソンは徹底した筋力トレーニングで頑丈な肉体を作り上げました。首周りは50センチ以上あり、少々パンチを受けても脳震とうを起こさない土台になっていました。

タイソンの経歴!恵まれなかった幼少期

ニューヨークのブルックリンで生まれ育ったタイソンは幼少期に父親が蒸発。女手ひとつで育ててくれた母親も16歳の時に死去しました。

内向的な性格でいじめられましたが、その反動でいつしか不良少年の道に。収監された少年院でボクシングと出合ったことで人生が変わりました。

類まれな才能を発揮したタイソンは出所後、フロイド・パターソンらの名王者を育て上げたトレーナー、カス・ダマト氏に預けられ、その才能に磨きをかけます。両親のいないタイソンにとっては父親代わりであり、ボクシングだけでなく私生活においても教育してくれる大きな存在でした。

ピーカブー・スタイルと呼ばれる、両グローブを顎の前で固め、体を振って前進するスタイルは、まさにダマトの教えでした。

ダマトがタイソンの世界王座奪取を見届けることなく死去した後も、その門下生のケビン・ルーニーがタイソンを引き続き指導していました。

しかし、1988年、マイケル・スピンクスとの全勝対決をわずか1ラウンドで制して統一王座4度目の防衛に成功した後、突然ルーニーを解雇。この頃からタイソンは栄光への架け橋から足を踏み外すのです。

絶頂から転落…(全盛期のタイソンはどれほど強かったのか)

きっかけはプロモーターのドン・キングでした。生前のダマトが「絶対に近付くな」と忠告していたにもかかわらず、タイソンはキングのプロモートを受けます。口八丁手八丁の辣腕プロモーターが、ボクシングしか知らない20歳過ぎの若者を懐柔するのは簡単でした。

ルーニーだけでなく、マネジャーのビル・ケイトンも解雇させ、完全に自分の“持ち駒”にしました。周囲に金目当てのイエスマンしかいなくなったタイソンは、糸の切れた凧のようにさまよい始めます。

ロビン・ギブンス夫人との離婚、訴訟に練習不足も重なり、以降の防衛戦では勝ちはするものの精彩を欠いていました。

そして迎えた1990年2月、東京ドームで行われた7度目の防衛戦。ジェームス・ダグラスに10回KO負けを喫し、とうとう王座から陥落しました。

ダウンした時に吐き出したマウスピースをくわえながらフラフラと立ち上がったものの、レフリーに抱きかかえられる姿は世界中に衝撃を与えました。

以降の人生は、一度は絶頂を極めたタイソンにとっては振り返りたくない過去かも知れません。1991年にレイプ事件を起こして服役。

出所後の1996年3月に一度は世界王者に返り咲きましたが、2度目の防衛戦でホリフィールドに敗れ、王座陥落。7カ月後の再戦では試合中にホリフィールドの耳を噛みちぎるという暴挙に出て失格負けとなりました。

その後は2度目の結婚、離婚をし、世界王座に復帰することなく2005年6月の試合を最後に引退しました。晩年は全盛期のスピードやキレはなく、ファンにとっても残念な姿を晒していました。

引退後~現在のマイクタイソン

2006年には飲酒運転とコカイン所持で逮捕、2009年には3度目の結婚をするなど、引退後も世間を騒がせています。

最近はラスベガスでワンマンショーの上演や映画出演するなど、エンターテインメント業界にも進出。

「昔の名前で売ってます」というのが正直なところでしょう。自伝で薬物依存を明かしたように、順風とは言い難い、波乱万丈の人生を歩んでいるようです。

“夢の対決”もし戦わば…

「耳噛み事件」以来、すっかりダーティーなイメージが付いてしまいましたが、全盛期に放った輝きは決して色褪せるものではありません。

タイソンが世界王座を奪った80年代後半の全盛期に、もし、全盛期のモハメド・アリと戦ったとしたら、どちらが勝つでしょうか。

アリはスピードとフットワークで相手を翻弄するアウトボクサーだったので、突進型ファイターのタイソンとは噛み合うでしょう。

序盤はアリが試合をコントロールするものの、スピードでも決して劣らないタイソンが中盤につかまえ、見事にノックアウトするのではないでしょうか。

それくらい、全盛期のタイソンには無敵の強さを感じました。

最強王者は晩節を汚してしまいましたが、願わくばボクシングに何らかの形で関わってほしいものです。ボクシング界において「マイク・タイソン」の名前は今でも燦然と輝いています。

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